読書感想「天狗争乱」(吉村昭)☆☆☆

 

天狗争乱 (新潮文庫)

天狗争乱 (新潮文庫)

 

 

内容紹介

桜田門外の変から4年――守旧派に藩政の実権を握られた水戸尊攘派は農民ら千余名を組織し、筑波山に「天狗勢」を挙兵する。しかし幕府軍の追討を受け、行 き場を失った彼らは敬慕する徳川慶喜を頼って京都に上ることを決意。攘夷断行を掲げ、信濃、美濃を粛然と進む天狗勢だが、慶喜に見放された彼らは越前に 至って非情な最期を迎える。水戸学に発した尊皇攘夷思想の末路を活写した雄編。

 

吉村昭の小説ってイマイチ苦手なんですよね。好きな人にはそこが魅力なんだろうけど、あまりに厳密で硬質な文章過ぎて。

とはいえ、『戦艦武蔵』とか『羆嵐』とか、それなりに代表作は読んでますが、この『天狗争乱』は未読でした。

いわゆる 天狗党の存在自体は知ってたけど、司馬史観というか「熱狂的に尊皇攘夷を掲げる、水戸浪士が、大局観なく暴発して無残な最後を遂げた。幕府の処分も苛烈であった。」くらいしか知りませんでした。素朴な疑問として、幕藩体制に背く武装集団が水戸から越前まで、どうやって移動できたんだろう、と思ってた位です。

この小説では、藤田東湖の子・藤田小四郎ら「天狗派」が挙兵し、水戸藩内の「門閥派」と闘争した末、はるか京都に向かい、越前で投降して処罰されるまでが、時に冗長に思えるほどに丹念に辿られます。

読む前は、漠然と、「なんで水戸の人らが越前で投降したんだろう。その間はどうやって進行したんだろう」と思ってたんですが、その道筋や、行く先々での諸藩や地元民とのやりとり、折々での天狗派の決断など、丹念に描かれます。

それによると、そもそも天狗派の人々は、水戸藩内の闘争に介入して追い詰められた末に、京都にいた一橋慶喜に自らを委ね攘夷の先兵となるために、京都を目指したんですね。

1000人規模の戦闘力も士気も高い天狗派が、甲州街道中山道を辿って西進するのを、途上の各藩は、お金を払ったりして間道を通ってもらう。天狗派もそもそも戦いたいわけではないからそれを承諾して、整然と粛々と行軍する。そんなわけで、一部例外はありつつ、ほぼ抵抗にあうことなく西進することができた。

行く先々ではきちんと宿賃等を支払い、借り上げた民家等の清掃も行って、粛然と進行する天狗派の描写は、刷り込まれていた「狂乱の末、暴発した水戸浪士」という読前のイメージとは全然、違いました。

隊士の妻女など女性も帯同してた、それでも秩序正しく行軍したというのは驚きました。

 

ところが彼らが頼みにしていた一橋慶喜という人は、幕府内の保身のために、あっさりと彼らを見捨てるんですね。むしろ投降の折衝をした加賀藩士は、親身になって懇願するんですが、それをにべもなく受け付けない。

鳥羽伏見の際に大阪から逃げ帰るのもそうですが、この人は、一体、何なんでしょうね。

まあ歴史の大局が見えすぎたっていうのもあるんでしょうけど、天狗派に対する扱いは余りに酷薄でむごい。これでは人はついてこないだろうに。

 

結局、天狗派は、その思想に忠実で、節義ある進退を弁えていたがために、時局の荒波に翻弄されて、無残な最期を遂げることになります。そこに歴史というものの冷酷さと、個々の人生の不条理を浮き上がらせるのに、吉村昭の硬質な文章はまさに最適ではあります。

 

自分の好みとしては☆3つですが、この小説が吉村昭の代表作として高く評価されるのは十分に分かりました。